☾…

歴史眺め記録。絵と文章と妄想で、もう触れられない月より遠い人たちを追いかけてます。藤堂高虎が好きです。

両御台様、嫁入りと追放、戦国の結婚は就活だと思う話。

 

f:id:kotosawa_a:20210224001854p:plain

和子とおよつ御寮人

 

きっと日本史に興味のない人でも知っているであろう

豊臣秀吉」の正妻「ねね」と側室「茶々」から戦国時代の女性たちを眺めていきたいと思います。

 

この二人は色んなドラマや映画は必ず登場しますし、

子の無い糟糠之妻と、若くお世継ぎを産んだ側室という大衆好みの設定から

悲劇のお姫様と農民出身の正妻とか、

プライドの高い側室と賢夫人とか、

いろんな彼女たちが見られます。

 

 

かくいう私も日本史に興味を持ち始めた当初は

「茶々は豊臣を滅ぼした悪女」

なんて思っていました。

 

ごめんなさい。

 

最近は新たな資料がたくさん出てきて、また、戦国時代の人気が高い時代が続いているので、たくさんの研究本があります。

 

読んでいくと、常識を覆されてばかりなのです。

 

まず、

正妻、北政所=於ねね

側室=茶々淀の方

から脳を切り替えねばならないようです。

 

なんと、

所謂戦国時代には「側室」という概念、言葉は存在していなかった。

 

?!?!

 

じゃあ、みんな奥さんなの?!妻なの?と、ただでさえ「妾」という存在が消え去ってから生まれた私は混乱します。

 

なんでも、当時は正妻は何人もいたり(?!)

豊臣秀次の一の台と若政所など。

 

正妻が追われて妾が正妻になったり(?!)

みんな大好き伊達政宗の脳髄、片倉小十郎のお母さんもそのパターンで、

再婚して小十郎を産みました。

 

そんなおおらかな家庭の風景が、わりとよくあったそうです

 

妾(手懸《てかけ》もいるけど、正妻も何人もいるとか、

どういうこと?!なんなの?!となるのですが、その価値観・ルールを明確に教えてくれる資料も人にも出会えません(大学で歴史学科に行きたかった

 

なので、

なぜ「茶々」が豊臣家において「正妻」たるかという事だけ記します。

茶々は長男鶴松、次男秀頼を産んだあたりから「お袋様」のみならず

「北の方」「北政所」《公家では正妻は北の館に住んだことから》

「御台様」《武家社会の正妻》

「簾中」《公家の妻》

と呼ばれ出します。

 

全てが正妻を意味する呼称です。

有名な「淀」と呼ばれた期間は意外と短いのですね。

居住する場所によって、高貴な女性は呼び名が変わります。

絶対に実名を呼ばないという強い意志を感じますね。

 

茶々は近江浅井氏の大名浅井長政と、織田信長の妹お市の方《ちなみにこの人も長政にとって2番目の妻》の長女でしたが、

伯父さん信長に実家浅井家を滅ばされると

織田家or浅井長政の姉or親戚に当たる京極家のどれかに引き取られます。

後の動きから、恐らくは織田家の人としてお市とともに存在していたのでしょう。

 

しかし、信長は本能寺の変で横死。

 

彼女たちを取り巻く環境は変わっていきます。

 

織田家は二人の重臣《秀吉と勝家》により実権争いが勃発します。

 

信雄派と信孝派に別れた家中で、おそらく仲が良かったのかなんなのか、信孝のそばにいたらしいお市は宿老・柴田勝家の元に信孝の指示で嫁ぎます。

この頃、茶々らも柴田勝家の居城 北ノ庄に帯同しています。

親子がこの時穏やかに暮らせたことを祈るばかりですね

 

次第に秀吉と柴田勝家の対立が激化し、母とともに北ノ庄の人となっていた三姉妹はまたも戦火に見舞われ、

賤ヶ岳の戦いによって敗れた勝家は、お市とともに自害してしまいます。

 

ここで、三姉妹は頼るべき親を完全に失くしてしまったのです。

 

落ち延びた茶々は、織田家の実質的な権力者になった秀吉の庇護を受ける事になります。

織田家当主である信雄は、なぜかこの頃三姉妹の一番下「おごう」《この方も日本史において非常に重要》を配下の佐治一成に嫁がせます。

なぜ、15歳になっていた茶々ではなかったのか?

これもまた疑問です。

 

姉妹は別々の後見者がいたのでしょうか。

お市の要請から秀吉が後見をしていた茶々と次女の初。 

同時期に秀吉は茶々に「私の妻になって頂きたい」との使者を出しているそうです。

これも、

俗説でいうお市に恋をしていた秀吉が似ている茶々を云々なのか

旧浅井家臣たちの人心掌握のためなのか

秀吉の妻たちの中で最も美貌との名高い愛しい京極竜子に「いとこ《茶々》の行く末が案じられる」とお願いでもされたのか

 

よくわかりません。

 

私は秀吉が通俗的に信じられているような「女好き」ではないように思うからです。

 

女好きなら、めんどくさい閨閥のない町の美女をしかるべき家柄の養女にして妻にするか

一夜の相手でいいのですから。

 

正妻於ねねの例にあるように、恋から婚姻を結ぶ人ではありますが、それはなんの身分も無い時のこと。

 

私たちの価値観だと、「妾」「側室」は色好みによるものですが

 

お姫様が美人とは限りません。

 

ほかの多くの武将がそうであったように、秀吉もその妻たちの家柄を見るに、政略によるものでしょう。

(女って道具みたいね

と虚しい気持ちになりかけますが、

幼い頃から、大名の娘として育てられた茶々や、当時の女性たちに「婚姻がつらい」「好きな人と一緒にならない」なんて悲しみは、同じ女性としても、なかったと思うのです。

もちろん心として、好きな人と一緒なのは幸せですが、以前読んだ昭和初期の婚姻の書籍にも「恋による婚姻は、下等なこと」とありました。

 

それだけ、恋と婚姻は結びつかなかった時代です。

 

だって、今のように学歴も勝ち取れず、生き方は選べず、

明日生きるか死ぬかです。

 

武家の子供達は

男と産まれれば、命を捨てて戦う事を義務付けられたように

女と産まれれば、嫁して家名のために胎で戦う覚悟を持っていたでしょう。

 

婚家に尽くさず、実家のために家中で働いた女たちも大勢います。

恐らく茶々だって、親がなく、頼るべき織田家も弱体化している中、

出世株の秀吉との婚姻は悪い話ではなかったでしょう。

 

当時の茶々の価値観を垣間見ることができるのが

「妻に」との秀吉の要請に

「それではまずは、長妹の初の婚姻も」とお願いしています。

 

現代の考えだと「勉強させて」とか「幼い娘なのでどうか育ててください」となりますが

 

戦国時代の

女の婚姻は身分の保証であり、生涯設計の柱「就活」なのです。

 

長くなりましたが、単純なようで複雑な経緯で茶々は秀吉の妻になったようです。

 

その後の彼女の人生は素晴らしい栄華と、あの結末が待っているのですが

茶々は、この時代の女性たちが体験したであろう辛さをすべて経験しているような人ですね。

豊臣政権を守るために、重臣にあてた手紙に彼女の心が現れているように思います。

 

「私はこのような事態に

相談する親がいない。貴方だけが頼りなのです」

 

茶々の物思いの影には常に「親」というキーワードがあるようにみえます。

おそらく、現代のように家族だけで過ごしたり、怒られたり、泣いたり、なんて経験がないであろう戦国時代の「家族」。

それでも、愛しい「親」「家」に変わりは無かったのでしょう。

 

現代人からすると、養子やらが多く、DNA鑑定も無いのに、よくそんなに必死になれるな?!なんて思ってしまいますが

 

茶々は、通俗的に語られるように

糟糠の賢妻を押しやって、家を滅ぼした美貌の側室

ではなく

たまたま歴史の中枢に関わる家に産まれたのに、普通の感性を持っていて、しかも唯一の世継ぎを産んでしまった女性であったと思うのです。

肖像画を見るに、美女と名高いお市よりも偉丈夫であった父親の長政似です。

自分を庇護してくれ夫となった秀吉との子を守れず、大阪城と共に散った彼女の心を思うと、胸が詰まります

 

そして、於ねねです。

ねねだとか於ねだとか寧だとか

まず名前からさまざまな議論がある人です。

 

これほどの地位の女性なのに、本名が伝わらない。

(中国や日本文化の不思議です。)

 

彼女は、私の中ではとても魅力的で、秀吉同様 物凄く頭の切れる人であったと思うのです。

ただの優しい優しい糟糠の妻では、農民を関白にできるお家にはできないでしょう。

 

於ねねと茶々で、なんとか豊臣を守る事は出来なかったのでしょうか。

 

大阪の役の戦火は京高台寺からも見えたと言います。

f:id:kotosawa_a:20190914025130j:plain

f:id:kotosawa_a:20190914025228j:plain

(いつかの高台寺。とても趣のある風情でした。茶室でお茶を頂くと、瓢箪のお茶受けと、頂ける扇には菊と桐が

 

ここから、

彼女と夫の築き上げた、美しく儚い「大阪城」を見つめていたであろう於ねねは、

 

何を思っていたのでしょうか

 

 

 

そして日本最高のお家への結婚就活物語の光と闇のお話も…

 

四辻中納言の娘およつ御寮人と、

征夷大将軍の孫娘徳川和子

 

 

和姫は徳川秀忠、お江の方の娘で、武家から天皇家へお嫁入りをした日本史の中でもかなり 稀有な女性です。

 

この方の入内と生涯は、

徳川二百年の泰平の歴史の始まりとも言えます。

 

 

まず、家康の「天下泰平の為に、徳川の血筋をもつ天皇がほしい」思惑で決まった婚約ですから

 

後水之尾帝本人もはぜんぜん乗り気ではありません。

 

和姫はまだ14歳ですし、

後水之尾天皇にはおよつ御寮人と呼ばれた女性と彼女が産んだ皇子たちという愛しい存在がいたのです。

 

およつは典侍で皇后でも女御でもありませんから、

まあ、妻としての地位は空いています。

 

なんといっても「関東」の「武家」の姫君です。

はんなりとした都人からすると「アマゾネス」のように想像していたのでしょう。

 

現に東国の女は男と共に戦場に出たり、国を守ったり、城主になったり、鎧姿で舅を追い返したりと美しくも猛々しい伝承が残っています。

 

天皇家側があれやこれやと生八つ橋に包んで時間を稼いでいる間に

 

大阪の陣が勃発。

 

徳川家も、それどころではありません。

 

和姫の伯母にあたる「淀殿」もこの時死んでしまいます。

 

そして極めつけは ひと安心したのか、家康公の死

 

徳川家は戦争と服喪で、入内どころでは無くなります。

 

しかし、それで引き下がる坂東武士ではありません。

東国の武家の女なんて嫌すぎて譲位まで仄めかしはじめる後水尾天皇にとうとうやらかします。

 

和姫入内を拒む五摂家以下の公卿衆との談合にあの藤堂高虎を遣わし

 

「はぁ?!和姫さまの何が不満なんだ!!先例もあるんだから、徳川家の言うことを聞けや!!あんまりわけわからん事言ってると天皇島流しにして俺は切腹してやる!!!!」

(意訳)

 

と交渉させます。

 

足軽から(元々は領主の家柄)大名にまで登り詰めた、

しかも身長190cm()身体は肌がどこかわからないほど傷だらけの高虎に凄まれたら、やんちゃ公卿近衛信伊位じゃないと断れません。

(高虎は意外にも茶道などに明るく近衛家によく出入りしていたとか)

 

哀れなのはおよつ御寮人と実家の四辻家、兄は配流、彼女は宮廷を追放の上尼にさせられます。

およつ御寮人は元々新上東門院(後水之尾帝の祖母)に仕え(当時は綾小路と呼ばれていた)、

帝の寵愛を得るという公家女性としては順風満帆の人生の筈でした。

 

 

こうして、和姫さまはめでたく天皇の女御となられたのです。

 

蓋を開けてみれば、和姫さまは大変魅力的な方だったようで、「おしゃれ中宮」好みの美しい小袖を流行らせ、押し絵を自ら描かれたり、風雅な女御として古くからの女官や公家衆にも好かれ、後水之尾帝とも仲が良く 女一宮をもうけ、彼女を女帝とし、

 

見事徳川と天皇家の光となったのでした。

腹は強し。(女性蔑視ではありません)

 

和宮と家茂みたいで、色々あったけど仲良しでかわいいですね。

 

余談ですが、和子の異父姉(豊臣秀勝との娘)九条家へと嫁いだ九条完子は、のちに大正天皇皇后となる女性の遠い祖先となり、織田 豊臣 浅井の血は天皇家へと続いています。

 

 

女帝は生涯独身らしいので家康公、真の意味では作戦失敗でしょうか?

 

千姫、和姫、完子と、母たち浅井三姉妹にまけないすごい姫たちですね

 

しかし、藤堂高虎はなんでここまでクレイジーいえ強心臓なんでしょう。(褒めてる)(すごい好き)

公卿出身ならいざ知らず、武家、しかも農民身分に落とされていた彼からすれば天皇とはそれこそ現人神のようなものだったのでは

浅井織田豊臣徳川を渡り歩き、その度に出世してきた彼は

とてつもない現実主義者で 雇い主第一、何も怖いものはなかったのでしょうか

この前まで秀長、秀吉に仕えていたのに

家康が亡くなるときには宗派の違いを嘆かれればその場で「改宗」

「これで大御所様にあちらでもお仕えできますぞ」

と家康を涙させたり、本当にクレイジーです。(褒めてる)

 

彼の生涯はいつか大河ドラマになりそうなくらい面白い。

 

次は藤堂高虎の就活人生(?)を書いてみたいと思います